大本柏分苑L2

日本を代表する宗教家である出口王仁三郎聖師から直接指導を受け、北朝の血統のある出口栄二先生のDVDを世に問う事を 最大の眼目にして、日本の将来を見つめ直そうとしています。 トレードマークの表示画像は1924年聖師が入蒙時(53歳)の雄姿です。

カテゴリ: メッセージ

―一大王国の建設―

私は車の中で、自分が拝読した霊界物語の録音を聞いており、今朝は六十六巻を聞いた。その序文に「六十七巻として蒙古入りの真相を」「いよいよ六十八巻となり」とあることから、入蒙記は当初、六十七巻として発刊される予定であったことがわかる。

また、六十六巻が蒙古入り後(「序文」大正十三年十二月十八日付)であることもわかるが、この序文に気になる箇所があった。

「無抵抗主義の三五教が軍事に関する行動を執るのは、少しく矛盾のやうに考へる人もあらうかと…混沌たる社会においては、ある場合には武力を用ふるの止むなき場合

もあり…阿弥陀如来でさへも、慈悲を以て本体としながら、右の手にて折伏の剣を有(も)ち、左手(ゆんで)には摂受(せつじゆ)の玉を抱へて、衆生済度の本願を達せむとしてゐる」

三五教が軍事行動も執るとある。実はこの序文と同じ内容が、出口聖師の入蒙に関するお歌の中にある。

「喇嘛寺の塔上に立ちて指揮すればわが軍兵はよく戦へり」

「四五十の戦死者残して敵兵はあなたの谷に退却をなす」

「愛善の道説く身ながら戦の庭に立つよを憂しと思へり」

「折伏の剣は阿弥陀も持てるてふこと思い出して自ら戦ふ」

「左手には摂受の玉をかかへつつ右手に折伏の剣握りて立てり」

   (第十一歌集『山と海』(昭和八年六月発行)昭和七年九月「蒙古の月」)

 六十六巻の序文が、蒙古における銃撃戦を踏まえたかのような印象を受ける。

 二月二十六日(月)の勉強会は、入蒙記の四章「微燈の影」から七章「奉天の夕」まで。この中に基本フレーズ「一大王国の建設」がある。

「蒙古の大原野に一大王国を建設し度(た)い」

(四章「微燈の影」)

「蒙古に新彊(しんきやう)に王国を建設」 (五章「心の奥」)

「蒙古に一大王国を建設」    (同右)

「宗教的、平和的に蒙古を統一し、東亜聯盟(れんめい)実現の基礎を立(たて)て」          (同右)

「我皇国存立の為、東亜安全の為、世界平和の為に、我国が率先して天与の大蒙古を開拓」

(六章「出征の辞」)

一大王国の建設は、結果的に満州国建国につながって行くのではないかとの感想を、私が述べた。すると、確かに満州国執政溥儀(ふぎ)を、出口聖師は日本に迎えようとされたが、当時の複雑な社会情勢の中で何とも言えないとの発言があった。

四章「微燈の影」に、隆光彦が支那五大霊山の一たる泰山に登り、曲阜の孔子廟に詣でたとある。私も二十年ほど前、妻と泰山と孔子廟に行った。泰山の道教の寺院にお参りした時、道士が中から出て来て、妻を選んだかのように渡した虎の石細工が、今も家に残る。 

(令6・2・29記)


大正天皇の崩御で1927年3月大赦令免訴、第1次大本弾圧の終了後、金融恐慌、田中内閣による対中国強硬政策、関東軍による張作霖爆破事件など翌昭和3年、日本は激動期を迎える。労働・農民運動の自覚と台頭が生まれ、当局は治安維持法・治安警察法を濫用して弾圧を強行した。大本においては、王仁三郎が56才7ヶ月に達した3月、みろく菩薩の顕現とされ<みろく大祭>が行われる。祭典後、王仁三郎は<万世の常夜の暗もあけはなれ、みろく三会の暁きよし>を朗詠する。神に祈り、決意を新たにして社会的活動を繰り広げることになる。昭和6年5月の日本宗教平和会議では、人類は神のもとに平等で戦争は罪悪とする大本の主張と、天皇が宣戦布告した正義の戦争は罪悪ではないとする筧克彦らの主張が激しく対立した。昭和6年9月満州事変、15年戦争の幕あけとなる。王仁三郎は1931年(皇紀2591年)をいくさのはじめ(じこくのはじめ)と読み替えて、日本の敗戦で終わった昭和20年8月<こうならぬとこの神は世に出られぬ>と語っている。

<ろこくばかりか、亜米利加までが、末に日本を奪る企み、金と便利に任せつつ>(明治36年)<今の世界の国々は、御国に勝りて軍器を、海の底にも大空も。地上地中の選み無く、やがては降らす雨利加の、数より多き迦具槌に、打たれ砕かれ血の川の、憂瀬を渡る国民の、行く末深く憐みて><いよいよ西伯利亜(シベリア)線を花道と、定めて攻め来る曲津神、力の限り手を尽し、工夫を凝らし神国を、ひと呑みせんと寄せ来り、天の鳥船空覆い、東の空に舞ひ狂ひ>(大正6年・瑞能神歌)などの預言があった。王仁三郎の主張は<学者の教うる惟神の道、思想家の説く皇道精神、軍人の叫ぶ日本主義など皇道を叫ぶ人々の多くが最も肝腎な、皇道は神より発する道である事をゆるがせにしている。神に一切を帰し、神の心に融けこんでこそ皇道の真諦に触れる。神に無い皇道は稔ることなき徒花である。>大本が天皇制の枠を越えて神の声を伝え、天与の使命を貫こうとする時、国家権力との激突は避けられぬ宿命であった。

2次弾圧の予審供述調書にこんな記載がある。<十六のまだうらわかき、さほひめを、神代の夢と消へやらで、三千とせならし、今の世に化けて洋服身にまとい大和島根の大空を>は若い稲田姫を呑もうとした八岐の大蛇が現皇統に化けて三千年間日本を統治する意味で、<神の稜威に照らされて、元の姿となる神はきくも邪悪の守護神>とは、鬼門の艮に遂はれて居た国常立尊が現れて、天皇陛下は元の八岐の大蛇となり、邪悪の統治者であった。現皇室は日本を統治せらるべき真正の天子様でなく、王仁三郎が真正の天子である事を主張せんが為に作った。誠に申し訳御座いませぬ。>誰が書かせたものか、現在では不明である。<天子を綾部に隠せり><今の天子偽者なり>昭和天皇が人間宣言をして象徴天皇になっても明治維新における皇室を巡る検証は、平成になってからである。王仁三郎に皇位継承権があった事、南北朝を巡る明治維新の革命理論には、横井小楠や吉田松陰らの南朝革命論があり、大本弾圧は南北朝の権力闘争でもあった。

後醍醐天皇が吉野山で京都の空をにらみ、再び皇位に還ることを念じ、子孫達に想いを託した願いは、明治天皇の崩御前年の勅裁からしばらく、南朝の名誉回復がなされたが、大室寅之祐とのすり替え説が浮上する余地となる。天皇親政を理念とした明治革命は、薩摩・長州などの勤王諸藩、尻馬に乗った一部公家達を除いて、庶民には納税・徴兵義務そして物価上昇を伴う未熟な資本主義で暮らしは悪くなった。明治天皇は操り人形で30名の側室と千代田遊郭で戯れて居た。すべての秘密を握った伊藤博文が統治者であった。

大正の時代に、王仁三郎は霊界物語第67巻<浮島の怪猫>で預言警告として、金剛不壊の霊山として湖にそびえるアケハルの岩(大黒岩・悪魔島)が突如沈んでしまう情景を発表している。<昔は日の神、月の神二柱が、天上より御降臨になり、八百万神を集いて日月の如き光明を放ち、邪気を払い天下万民を安息せしめ、ご神体として国人があの岩山を尊敬していた。おひおひ世は澆季末法となりその光明も光を失い、今や金毛九尾とも大蛇とも形容しがたい怪獣が棲息所となっている。時々大鳴動を起し、噴煙を吐き散らし、湖面を闇に包んでしまう。アレご覧なさい、頂上の夫婦岩が何だか怪しく動きだしたじゃありませぬか。あれあれ、そろそろ夫婦岩が頂の方から下の方へ歩き始めたじゃありませぬか。岩かと思えば虎が這うているように見え出して来たじゃありませぬか。よくよく見れば牛のような虎猫である。目を怒らして睨みながら、逃げるが如く湖面を渡って夫婦連れ、西方指して浮きつ沈みつ逃げて行く。にはかに浮島は鳴動を始め、半時ばかりの内に水面にその影を没っしてしまった。>

<我々は不安で堪らないのです。つい1時間前まで泰然として湖中に聳えていた、あの岩山が脆くも湖底に沈没すろというような不祥な世の中ですからなア。聖者は野に隠れ、愚者は高きに上って国政を私し、善は虐げられ悪は栄えるという無道の社会ですから、天地も之に感応して色々の不思議が勃発するのでしょう。今日の人間は堕落の淵に沈み、卑劣心のみ頭を擡げ、有為の人材は生まれ来たらず、末法常暗の世となり果ているのですから。10年以内には世界的大戦争が勃発するしょう。実に戦慄すべき大禍が横たわっております。今の人間は神仏の広大無辺なる御威徳を無視し、暴力と圧制とをもって唯一の武器とする大黒主の前に拝跪渇仰し、世の中にハルナの都の大黒主より外にないものだと誤解しているのだから、天地の怒りに触れて、世の中は一旦破壊さるるは当然でしょう。まるきり神様を科学扱いにし、ご神体を分析解剖して色々の批評を下すという極悪世界ですもの、こんな世の中が出て来るのは寧ろ当然でしょう。>

明治天皇のすり替えや天皇制の崩壊に及ぶ預言と、人類が破滅か生き残りかの分水嶺に立って、実に簡単明瞭に神と人との関係を示し警告を発している。大黒主を批判する部分と、現代社会の道義の乱れ・不安を取り上げ、近未来での大戦争と天地の怒りに触れて一旦破壊するとまで断定される。天皇や軍人は神ではない。崇拝黙祈すべきは主なる創造神である。

弾圧直後、当局のでっち上げ予審調書である。<太古伊邪那岐尊は高天原の主宰神とし、地上界は素戔嗚尊が統治、霊主体従の神政を行うが厳格すぎて、八百万神の反抗を受け、天照大神は千座の置戸を負い天の岩戸に隠退された。素戔嗚尊の子、出雲の大国主命は瓊々杵尊の降臨でが帰順したが、現皇統の体主霊従、弱肉強食により民衆は喘いだ。そこで済世救民の教主として王仁三郎が綾部に現れ、世の立替立直みろくの世の成就をはかり、国常立尊の隠退再現説を創作して、国体変革の思想を宣伝している。王仁三郎は国常立尊、豊雲野尊、撞の大神の霊代として現皇統を廃止し統治者になろうとしている。>大本の神は天皇制のかかげる神とは異質であり、独創的、より深い神観神話を当局は着目主張しているが、国体変革の教義はない。片言隻語を抜き出し、宗教用語に当局流の国体変革理論のでっち上げである。統帥権のかげに隠れ、武力革命を呼号する右翼・軍人と王仁三郎が結びついて、資金が流れ重大事態を予想させた。満州の紅卍字会と国内とで、国家革命・大陸進出を恐れたという。翌2・26事件にあわてふためき、幻想と恐怖にとりつかれていた。王仁三郎は神の教を、俗人がつくった法律で取締まり監督するとは出来ぬ話であるとし、政教分離の原則を混同した時代錯誤の考えがみられる。浜口首相狙撃、血盟団・515・神兵隊事件など多発していた。そして昭和9年の昭和神聖会の結成が刺激を与え、民衆的基盤の独自皇道論と現状打破が導火線となった。

内務省当局の見解は<皇道大本なる団体は、国体変革の目的を有する結社と見做して何等不当にあらず>という漠然としたもの。結社組織の証拠をでっち上げるのは検事の仕事だった。不遡及の原則で結社の時期を治安維持法の制定前、大正14年以降にする為、昭和3年3月3日のみろく大祭後の供え物から王仁三郎が大根や里芋を幹部に与え、密意を伝えたという。開教以来一貫した宗教の祭典に、新たな結社組織の事実はない。二審において無罪となる。1次弾圧に続いて不敬罪を持ち出す。<現世の君より外にきみなしとおもう人こそ愚なりけり><日の光り昔も今も変わらねど東の空にかかる黒雲>などを、皇室への呪詛とした。事実をよく調べず、自己流の解釈、身勝手な理屈である。不敬罪自体、一方的認定によって成立する仕組みであった。西園寺公望の秘書原田日記には<政治家達に盛んに手紙を出し、満州における紅卍字会と、軍の統制を乱し、不敬罪と治安維持法を適用される犯罪事実がある。>とした。王仁三郎は<大本弾圧の根本は主神を祀っていたからだ>と語っている。昭和天皇は事件後の昭和11年京都府知事に<検挙事件によって府民の信仰心に及ぼした影響はないか>とただしたという。


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