〇霊界物語と第三次大本事件

ところで聖師は、第二次事件と霊界物語の関係について、「警察の手を借りて霊界物語を取り上げることで、逆に信者に霊界物語が示す教えの尊さを悟らせた」【註19】と言っておられる。これをヒントに、この霊界物語の刊行について考えれば、「警察からの再弾圧をしのぐため、懸命に忍耐をしていたところ時節が到来し、読みやすく誰もが親しめる霊界物語を信者は与えていただくことができた」というようなことが言える。

従って現在は、霊界物語で誰もが聖師の「みろく下生」たる御神格を理解できる状態にある。よって、霊界物語さえ拝読すれば、カモフラージュたる「三代教主伊都能売御霊論」など吹っ飛んでしまうはずである。

しかるに、旧弾圧側の杭迫氏に通じる宇佐見龍堂氏が大本内部に総長として入り込み、再び「三代教主伊都能売御霊論」を用いて「聖師の偉業は幻」【註20】などと、あたかも旧弾圧側の勝利宣言のようなことを言っている。また、今の大本本部もこれを引き継いでいる有り様である【註21・22】。

これはあたかも「警察(=宇佐美氏)の手を借りて霊界物語を取り上げられた状態(=霊界物語にない『三代教主伊都能売御霊論』などを信奉)」である。よって「信者に霊界物語が示す教えの尊さを悟らせる」ために、再度、大本事件として第三次が必要だと「みろくの大神」が思われたのではないだろうか。

【註19】小山弁護士への言葉

「霊界物語を読めといっても読まないから、神様が警察の手をかりて取り上げになった。人は手もとになくなると恋しがって、血まなこになって読みだす。読んで初めて教えの尊さがわかる。…事件が起こらなかったら誰も教えの真価を理解しない。勉強するよう神様から仕向けられた。一人に教えがわかれば万人にわかる。一人にわからなかったら、永久に土に埋もれてしまう」

(『第三次事件の真相』二六六頁 要約)

【註20】開祖大祭での宇佐美総長挨拶

「三代教主様、現教主様が瑞・厳二霊を統一させられまして伊都能売御霊として‥この現界にすべてのものを修理固成、つくりかためさせられるのが、三代教主様、教主補佐様の御神業‥。

聖師様の御構想、御神業というものは一旦事成りましたが、ことごとくこの地上から弾圧のためにかい滅した…今日では聖師様の御偉業というものは幻として残っているだけ」

〔昭和五十九年開祖大祭 宇佐美総長挨拶〕

【註21】「教主は二大教祖と等質的な存在」

(平成二十一年七月提訴:要荘・掬水荘明渡請求での本部主張)

【註22】教主が神の代行者

「大本には、その時代の教主が、開祖、聖師以来の道統を継承し、地上における神の代行者として…大本信徒は、その時代の教主を通して、神に対して『主一無適の信仰』を捧げている」

(大本本部ホームページ「反教団事件の本質」平成二十八年六月二十九日現在)

〇開教百年目の霊界物語

 昭和四十二年、我々は読みやすい霊界物語を得て、ようやく聖師の御神格を理解できることとなった。しかし残念ながら、まだ完全な霊界物語ではなかった。この昭和四十二年校定版には、国祖御隠退に関する箇所で悪質と言える改ざんがあった。

聖師が、霊界物語を詳細に校正されたことを先に述べたが、第四巻第四十二章「無道の極」にある「大神」の前に、「盤古(ばんこ)」を加えておられる。加えずとも文意はわかるが、「盤古大神(ばんこだいじん)」とすることで、国祖の地位にとって代わらんとする八(やつ)王(おう)大神(だいじん)の野心が、盤古大神の承認を得たものにすぎないことを明確にされている。

ところが、昭和四十二年校定版では、聖師が「盤古大神」と校正されたにもかかわらず、「天の大神」とされている。「盤古」が「天の」になるのであるから、意図的な改ざんである。これでは、八王大神の野心が「天の大神」の承認を得た正当性なものとなり、聖師の意図とは全く逆となる。この悪質な改ざんは、まさに第四巻第四十二章の章題どおり「無道の極」にほかならない。

これを発見した信徒連合会では『愛善世界』平成五年五月号や七月号で、「根本教典に人為の手を加えてはならない」など厳しく指摘するとともに、内容を説明した文書を全国に発送した。

大本本部は、これに反応したかのように『愛善苑』平成五年七月号において、「事務上の不始末」との理由で、当時本部が発行していた『霊界物語』修補版の当該箇所の訂正を発表している。

実は、この四十二年校定版の改ざんが発見されたのは、「開教百年」に当たる平成四年の十二月から順次、愛善世界出版社版の『霊界物語』が発刊される中でのことである。改ざんの詳しい内容も第四巻「あとがき」に記してある。

なお、愛善世界社版『霊界物語』の編さんは、聖師「校正本」に忠実に行われ、また、難しい語句には「注」を施し、「追注」で聖師「校正本」との関係を丁寧に説明している。加えて単行本としての発行は、より霊界物語を身近なものとした。

第三次事件の最中(さなか)、開教百年にして我々はより聖師のご意思に沿った『霊界物語』を得ることができた。この霊界物語をもって「信者に教えの尊さを悟らせよう」とされる「みろくの大神」のご意図を感じざるを得ない。

〇最後に

私は、出口伊佐男氏について、「教主生き神信仰」を大本に浸透させた張本人だとして、ずっと快く思っていなかった。

また、聖師が『錦の土産』で伊佐男氏に絶対的な信頼感を寄せておられても、それをなかなか受け入れることができなかった。

「宇知丸は瑞の御魂の分霊にして大八洲彦命の精霊の再生なり。月の手によりて成れる神示のプログラムに由りて選まれたる役員信者を総指揮すべき因縁にして霊魂上より云えば瑞月の実子なり。神界の経綸に付き一切を神示しあり。故に宇知丸の言は瑞月の伝達なり。その思慮また瑞月の思慮なり。故に大本人は皆その指揮に従うべし」

(『錦の土産』大正十二年十月十四日)

しかし、この文章を作るなかで伊佐男氏に対する見方がだんだん変わって行った。そのきっかけとなったのが、『松のひびき』にあった伊佐男氏の夢の話である。亡くなられる一月前に、聖師の夢【註23】を見ておられたのを読み、少し心持ちが変わった。

その後、これまで紹介してきたように、出来事の一つひとつを年表に落としていきながら最晩年の様子を見て、実は聖師の御神格を世に顕す御用をされていたのではないか、また、伊佐男氏を詠まれた余白歌のある霊界物語第三十九巻に示されている「惟神的の八百長」【註24】のように、時期が来るまで旧弾圧側に対するカモフラージュの作 業をされておられたのではないかと思い始めた。

【註23】聖師の夢

「居並ぶ信者、群衆の前に名を呼び出され、ずっと進んで行くと、正装された聖師に招かれて、

手ずから宝刀を授けられた」

           (『松のひびき』一一六頁)

【註24】惟神的の八百長

ヨセフ『…本当の事を教へてやらう。実の所は…三五教の宣伝使依彦さまとは俺の事だぞ。バラモン教の内情を探るべく鬼熊別の部下…』

イール『…三五教の宣伝使が三五教の黄金姫に取つて放られるといふ…』

ヨセフ『そこは貴様等を詐る為に、八百長で一寸放られて見たのだ』

イール『何と高価な八百長だのう。一つ違へば命がなくなる様な八百長…』

ヨセフ『さうだから三五教の宣伝使照国別さまがやつて来て命を助けてくれたぢやないか。要するに惟神的の八百長だといふ事が今分つたのだ。アハヽヽヽ』

○余白歌(初版本)

大八洲彦の命の精霊の

宿る宇知麿心赦すな 

人々の頭に立たむ身魂には

醜の曲霊のねらうものなり 

鮮やかな月照る庭に咲匂ふ

八重の花の香殊に美はし            

(第三十九巻第一二章「種明志(たねあかし)」)

         ○

ところで私は、今からちょうど十年前の平成二十一年四月の初め、予定されていたかのような逃れようもないアクシデントに会い、ある方のために結局、三年半の病を得た。

その間、その理不尽さをずいぶん恨みに思った。しかし、病が癒えてその方に直接会いに行ったとき、不思議にも瞬時にその恨みが消えた。

しかも直説話してみると、私のことをずいぶん気にかけてもらっていたこともよくわかった。また、亡くなった妻を詠んだ私の歌集に一番丁寧な手紙をいただき、「うちの女房も泣いてからのお」とも言ってもらい、その方への見方がすっかり変わった。

同時に、人を恨むことが自分自身を苦しめていたことにも気がついた。今回、この原稿を書き進むなかで、これに似た気持ちの変化を伊佐男氏に対して感じた。

それにしても、伊佐男氏はなかなかわかりにくい方であるが、三代様や四代様はよくわかっておられた。

愛善の道に一生(ひとよ)を貫きし宇知麿を知る人いくたりありや

    (出口直日『松のひびき』二頁)  

「表面に出さなかった愛情がわからず叔父の心を知ることの出来なかった自分を省みているこの頃です」(出口直美『松のひびき』五頁)

(修正:令和元年11月23日)