大本柏分苑L2

日本を代表する宗教家である出口王仁三郎聖師から直接指導を受け、北朝の血統のある出口栄二先生のDVDを世に問う事を 最大の眼目にして、日本の将来を見つめ直そうとしています。 トレードマークの表示画像は1924年聖師が入蒙時(53歳)の雄姿です。

2020年09月

沓島開き120年祭の藤井盛氏のYOU TUBE動画(神島開きと神武天皇)、よく撮れてましたね、沓島が2つの島から成っていたとは知りませんでした。

 ただ動画の終わり近くのテロップで藤井氏の「今回の沓島参拝で、大本教義と神武天皇とが一致した・・」との言葉に思わず絶句した。

 何故大本信徒は、天皇にこだわるのか? 沓島を前にして開祖の苦行を思い、

国祖の苦難に思いを馳せるのが普通であると思うが、何故天皇に思いを巡らせるのか?

 私なりの考えでは、聖師の生い立ち(有栖川の後胤説)と聖師自身の文章(霊界物語「天祥地瑞78巻序文と本文中、皇太子殿下誕生の大仰な祝い文)による信徒への啓蒙・・この天皇制賛美文と戦後の所謂吉岡発言の記事とは真逆すぎて、同一人物の言葉とはとても捉えられず、大本教義そのものへの信憑性を問われても仕方がない。

 明治25年、大本は開祖への国常立尊の神憑りにより開教した。開祖は、一貫して世の立替、立直しを叫び、人民への改心を迫った。大本が天譴の宗教と謂われる所以もここにある。目下、先の見えない新型コロナウィルス禍に対し、ワクチンができる迄の辛抱とされているが、果たしてどうだろうか

 大正4年旧11月6日のお筆先(大本神諭第四集p119 愛善世界社刊)

 悪ではモウ一足(ひとあし)も、往(ゆ)きも還(かへ)りも成らん事になりて、善のはたらきのいろはから勉強をいたして、これまでの心をサッパリ捨ててしもうて、これまでの行(や)り方を、上から下の行(や)り方、この世一切(いっさい)の行(や)り方をさっぱり(全然)替えさすから、今では真実(まこと)にいたさねど、代(かは)りかけたら速いぞよ。

 お筆先は、予言の書である。

日本が泥海になる(昨今の洪水被害を見よ)、火の雨が降る(聖師は空襲時の爆弾のようなチョロコイもんと違うと指摘、先日日本上空に火球のような火の玉が大気圏に突入し、その画像がまるでSF映画のごとくTVに映し出されていた、後日、千葉県に隕石の一部が発見されたが、このようなことは今まで無かった。)

 コロナウィルスにより、わずか半年間で社会の仕組みが変わってきた、人との接触が避けられるようになり、仕事は都心に出勤せず自宅でテレワークに。通勤しないから鉄道会社は赤字経営、倒産して鉄道は無くなるかも知れない、リニアなどもはや不要かもしれない。人の行き来が無くなると都心のターミナルも寂れ、繁華街も不要となり、都心の百貨店も閉店。市役所の手続きもオンライン処理で自宅から手続き完了、つまらぬことでも地方から日参させられた悪の権化中央官庁もデジタル化で権威を示せなくなる・・つまり縮小。メディアもweb、スマホニュースで広告収入激減、新聞も戸配が無くなり、スタンド販売も人が居ないから成り立たず、つまり新聞社も倒産。人間が最低限生き残るための業種だけが存在するという様変わりの世の中に変わることが目下進行中なのかも知れない。

 宗教団体も集まってお祈りを捧げることもできなくなるし、献金も減るだろう

WEB化でどれだけ人の心をつかめるか、祈りの対象を持たない、寄り集まりでの宿命転換の発表を主体としてきた創価学会は運営が辛くなるだろう。

 大本(本部側)だってYouTubeで中身のない安っぽい講師がダラダラと映像を流しても恥をかくだけである、宗教は開教の精神とその歴史をしっかり伝えないと今までと同じ調子では消え去るだろう。

 話が飛んでしまった、天皇と平和である。

出口栄二師は、聖師の右翼的言動について、「時代的背景下でのお遊びみたいなもの・・」で、そのことについてはあまり拘っていない、寧ろ聖師と直に接触した人間性と拘留体験下の聖師自身の言葉が強烈だったのではないか、そしてそれは所謂吉岡発言と関係するのであり、安丸良夫が指摘した「それまでの反省」を含んだものであったと思われる。

 万世一系の天皇 が怪しいもであるとの指摘、特に継体天皇から代わっているとの声が識者であるが、未来永劫の天皇制を望むのであれば、一夫一婦の民主主義社会下ならば男系、女系に拘らず血統重視で存続させるしか方法はない、それでもなお現代医学を駆使し続けねばならないだろう。

 敗戦時GHQは当初天皇の戦争責任を厳しく弾劾する予定であったが、対ソ緊張下、日本を西側傘下に置くべく天皇利用への急転換が為され、今日に至っているが、果たして天皇は利用されるばかりであったろうか

 私の住んでいる町内では、年に数回町内ゴルフが行われ、先月も一緒の組でプレーした人は、航空自衛隊のジェット機のパイロットをしていて「現役引退時に航空自衛隊学校の教官を命じられ、その折に日本の敗戦原因を自分なりに徹底的に調べたら、どうしてもその責任は昭和天皇にある、と確信した」と言う。現役の自衛官がですよ。彼が続けて言うのには「日本人の死者は兵隊も含めて300万人、そのうち200万人が終戦一年前に死んでいる。一年前には終戦への打診がアメリカからあったにも拘わらず、天皇が拒絶した、その結果一年間で200万人の命が失われた、これ天皇の責任と言わずして何と言う・・」とこのことを当時の上官に言うと「〇〇お前、それ以上言うとクビになるで・・、と言われたので言うのは止めたが、昭和天皇に責任があったと言う思いは今も変わっていない、戦争はしたらあかんわ・・」と言う。

 第一線に居る人の方が案外平和思想の持主かもしれない、と思うと同時に開祖は「兵隊さんは可哀そうや・・」、底辺の人民への思いを終生述べられている、自身の苦しみの人生から滲み出るような思いがそこにあり、開祖の言説からは、天皇を賛美することは無かった。


大正天皇の崩御で1927年3月大赦令免訴、第1次大本弾圧の終了後、金融恐慌、田中内閣による対中国強硬政策、関東軍による張作霖爆破事件など翌昭和3年、日本は激動期を迎える。労働・農民運動の自覚と台頭が生まれ、当局は治安維持法・治安警察法を濫用して弾圧を強行した。大本においては、王仁三郎が56才7ヶ月に達した3月、みろく菩薩の顕現とされ<みろく大祭>が行われる。祭典後、王仁三郎は<万世の常夜の暗もあけはなれ、みろく三会の暁きよし>を朗詠する。神に祈り、決意を新たにして社会的活動を繰り広げることになる。昭和6年5月の日本宗教平和会議では、人類は神のもとに平等で戦争は罪悪とする大本の主張と、天皇が宣戦布告した正義の戦争は罪悪ではないとする筧克彦らの主張が激しく対立した。昭和6年9月満州事変、15年戦争の幕あけとなる。王仁三郎は1931年(皇紀2591年)をいくさのはじめ(じこくのはじめ)と読み替えて、日本の敗戦で終わった昭和20年8月<こうならぬとこの神は世に出られぬ>と語っている。

<ろこくばかりか、亜米利加までが、末に日本を奪る企み、金と便利に任せつつ>(明治36年)<今の世界の国々は、御国に勝りて軍器を、海の底にも大空も。地上地中の選み無く、やがては降らす雨利加の、数より多き迦具槌に、打たれ砕かれ血の川の、憂瀬を渡る国民の、行く末深く憐みて><いよいよ西伯利亜(シベリア)線を花道と、定めて攻め来る曲津神、力の限り手を尽し、工夫を凝らし神国を、ひと呑みせんと寄せ来り、天の鳥船空覆い、東の空に舞ひ狂ひ>(大正6年・瑞能神歌)などの預言があった。王仁三郎の主張は<学者の教うる惟神の道、思想家の説く皇道精神、軍人の叫ぶ日本主義など皇道を叫ぶ人々の多くが最も肝腎な、皇道は神より発する道である事をゆるがせにしている。神に一切を帰し、神の心に融けこんでこそ皇道の真諦に触れる。神に無い皇道は稔ることなき徒花である。>大本が天皇制の枠を越えて神の声を伝え、天与の使命を貫こうとする時、国家権力との激突は避けられぬ宿命であった。

2次弾圧の予審供述調書にこんな記載がある。<十六のまだうらわかき、さほひめを、神代の夢と消へやらで、三千とせならし、今の世に化けて洋服身にまとい大和島根の大空を>は若い稲田姫を呑もうとした八岐の大蛇が現皇統に化けて三千年間日本を統治する意味で、<神の稜威に照らされて、元の姿となる神はきくも邪悪の守護神>とは、鬼門の艮に遂はれて居た国常立尊が現れて、天皇陛下は元の八岐の大蛇となり、邪悪の統治者であった。現皇室は日本を統治せらるべき真正の天子様でなく、王仁三郎が真正の天子である事を主張せんが為に作った。誠に申し訳御座いませぬ。>誰が書かせたものか、現在では不明である。<天子を綾部に隠せり><今の天子偽者なり>昭和天皇が人間宣言をして象徴天皇になっても明治維新における皇室を巡る検証は、平成になってからである。王仁三郎に皇位継承権があった事、南北朝を巡る明治維新の革命理論には、横井小楠や吉田松陰らの南朝革命論があり、大本弾圧は南北朝の権力闘争でもあった。

後醍醐天皇が吉野山で京都の空をにらみ、再び皇位に還ることを念じ、子孫達に想いを託した願いは、明治天皇の崩御前年の勅裁からしばらく、南朝の名誉回復がなされたが、大室寅之祐とのすり替え説が浮上する余地となる。天皇親政を理念とした明治革命は、薩摩・長州などの勤王諸藩、尻馬に乗った一部公家達を除いて、庶民には納税・徴兵義務そして物価上昇を伴う未熟な資本主義で暮らしは悪くなった。明治天皇は操り人形で30名の側室と千代田遊郭で戯れて居た。すべての秘密を握った伊藤博文が統治者であった。

大正の時代に、王仁三郎は霊界物語第67巻<浮島の怪猫>で預言警告として、金剛不壊の霊山として湖にそびえるアケハルの岩(大黒岩・悪魔島)が突如沈んでしまう情景を発表している。<昔は日の神、月の神二柱が、天上より御降臨になり、八百万神を集いて日月の如き光明を放ち、邪気を払い天下万民を安息せしめ、ご神体として国人があの岩山を尊敬していた。おひおひ世は澆季末法となりその光明も光を失い、今や金毛九尾とも大蛇とも形容しがたい怪獣が棲息所となっている。時々大鳴動を起し、噴煙を吐き散らし、湖面を闇に包んでしまう。アレご覧なさい、頂上の夫婦岩が何だか怪しく動きだしたじゃありませぬか。あれあれ、そろそろ夫婦岩が頂の方から下の方へ歩き始めたじゃありませぬか。岩かと思えば虎が這うているように見え出して来たじゃありませぬか。よくよく見れば牛のような虎猫である。目を怒らして睨みながら、逃げるが如く湖面を渡って夫婦連れ、西方指して浮きつ沈みつ逃げて行く。にはかに浮島は鳴動を始め、半時ばかりの内に水面にその影を没っしてしまった。>

<我々は不安で堪らないのです。つい1時間前まで泰然として湖中に聳えていた、あの岩山が脆くも湖底に沈没すろというような不祥な世の中ですからなア。聖者は野に隠れ、愚者は高きに上って国政を私し、善は虐げられ悪は栄えるという無道の社会ですから、天地も之に感応して色々の不思議が勃発するのでしょう。今日の人間は堕落の淵に沈み、卑劣心のみ頭を擡げ、有為の人材は生まれ来たらず、末法常暗の世となり果ているのですから。10年以内には世界的大戦争が勃発するしょう。実に戦慄すべき大禍が横たわっております。今の人間は神仏の広大無辺なる御威徳を無視し、暴力と圧制とをもって唯一の武器とする大黒主の前に拝跪渇仰し、世の中にハルナの都の大黒主より外にないものだと誤解しているのだから、天地の怒りに触れて、世の中は一旦破壊さるるは当然でしょう。まるきり神様を科学扱いにし、ご神体を分析解剖して色々の批評を下すという極悪世界ですもの、こんな世の中が出て来るのは寧ろ当然でしょう。>

明治天皇のすり替えや天皇制の崩壊に及ぶ預言と、人類が破滅か生き残りかの分水嶺に立って、実に簡単明瞭に神と人との関係を示し警告を発している。大黒主を批判する部分と、現代社会の道義の乱れ・不安を取り上げ、近未来での大戦争と天地の怒りに触れて一旦破壊するとまで断定される。天皇や軍人は神ではない。崇拝黙祈すべきは主なる創造神である。

弾圧直後、当局のでっち上げ予審調書である。<太古伊邪那岐尊は高天原の主宰神とし、地上界は素戔嗚尊が統治、霊主体従の神政を行うが厳格すぎて、八百万神の反抗を受け、天照大神は千座の置戸を負い天の岩戸に隠退された。素戔嗚尊の子、出雲の大国主命は瓊々杵尊の降臨でが帰順したが、現皇統の体主霊従、弱肉強食により民衆は喘いだ。そこで済世救民の教主として王仁三郎が綾部に現れ、世の立替立直みろくの世の成就をはかり、国常立尊の隠退再現説を創作して、国体変革の思想を宣伝している。王仁三郎は国常立尊、豊雲野尊、撞の大神の霊代として現皇統を廃止し統治者になろうとしている。>大本の神は天皇制のかかげる神とは異質であり、独創的、より深い神観神話を当局は着目主張しているが、国体変革の教義はない。片言隻語を抜き出し、宗教用語に当局流の国体変革理論のでっち上げである。統帥権のかげに隠れ、武力革命を呼号する右翼・軍人と王仁三郎が結びついて、資金が流れ重大事態を予想させた。満州の紅卍字会と国内とで、国家革命・大陸進出を恐れたという。翌2・26事件にあわてふためき、幻想と恐怖にとりつかれていた。王仁三郎は神の教を、俗人がつくった法律で取締まり監督するとは出来ぬ話であるとし、政教分離の原則を混同した時代錯誤の考えがみられる。浜口首相狙撃、血盟団・515・神兵隊事件など多発していた。そして昭和9年の昭和神聖会の結成が刺激を与え、民衆的基盤の独自皇道論と現状打破が導火線となった。

内務省当局の見解は<皇道大本なる団体は、国体変革の目的を有する結社と見做して何等不当にあらず>という漠然としたもの。結社組織の証拠をでっち上げるのは検事の仕事だった。不遡及の原則で結社の時期を治安維持法の制定前、大正14年以降にする為、昭和3年3月3日のみろく大祭後の供え物から王仁三郎が大根や里芋を幹部に与え、密意を伝えたという。開教以来一貫した宗教の祭典に、新たな結社組織の事実はない。二審において無罪となる。1次弾圧に続いて不敬罪を持ち出す。<現世の君より外にきみなしとおもう人こそ愚なりけり><日の光り昔も今も変わらねど東の空にかかる黒雲>などを、皇室への呪詛とした。事実をよく調べず、自己流の解釈、身勝手な理屈である。不敬罪自体、一方的認定によって成立する仕組みであった。西園寺公望の秘書原田日記には<政治家達に盛んに手紙を出し、満州における紅卍字会と、軍の統制を乱し、不敬罪と治安維持法を適用される犯罪事実がある。>とした。王仁三郎は<大本弾圧の根本は主神を祀っていたからだ>と語っている。昭和天皇は事件後の昭和11年京都府知事に<検挙事件によって府民の信仰心に及ぼした影響はないか>とただしたという。


409
「しんどかったら、もう寝なはれ」
 宇能は思わしげに娘賀るにいった。貧しい夕餉の半ばである。賀るはうなづき、重たげに椀を置くと、足音も立てず奥の長七畳の間に消える。宇能は夫吉松と眼を見合わせて吐息した。
 次女ふさが亀岡町西竪の岩崎家に嫁いだのは二十三歳の春。つづいて十九歳の三女世祢が、養女に望まれて伏見の叔父の船宿へ手伝いがてら行った。それからもう丸二年に近い。家にいる長女賀るは今年三十二歳、とうに婚期を逸した。体が弱く、器量もよいとは言えぬ。
 めっきり老いの深い背をまるめて、かさかさと飯をかきこむ吉松。土間の片隅で丹念に磨いた鎌と鍬の、はがねの色が冷たく光る。見まわすあたりはくすんで暗い。時おりはじける囲炉裏の火と背戸の榧の梢を吹きすぎる風のほか、音もない。
 宇能は箸をとめて、腰を浮かした。人の気配が動いて、板戸が鳴った。吹きこむ雪にまじって、白い顔がのぞく。
「お世祢……」
 喜色と不安をつきまぜて宇能は末娘を迎え入れ、肩先につもる雪をはらった。そわそわと肥松を持ち出し、吉松は囲炉裏に明るい炎を上げる。叔父の家でととのえたのか、黒地に紅の細縞の着物。黒繻子にたまのり縮緬の腹あわせ帯がよくうつる。娘らしさがはんなり家中に匂った。
「お賀る姉さん、どこおってん」
「いま寝たとこや。ぐわい悪いんやろ、起こさんとき」
 まだ独身の姉の姿の見えぬことにむしろほっとし、世祢は草鞋をぬぐ。母の出してくれた濯ぎの水が、赤くむけた足の親指の根本に激しくしみる。
 こういう時、男親の吉松は出番がなくて落ち着かない。
「飯、まだやろ。早う食わせたれ」
「いらん」
 思いつめた娘の眼つきに、吉松と宇能はどきっとした。世祢の頬も手も青白く冷えて、こわばっている。宇能は熱い番茶をつぎながら、さりげなく聞く。
「年の暮れで忙しやろに、よう帰してくれはったなあ」
「暇もろうて来たんや」
「暇……? お世祢、暇いうもんは、いくら親戚の船宿かて、お前の勝手で願うてもらうもんやない。それともなんぞ落ち度があって……叱られて出されて来たんやないか」
 咎めるような母の語気に答えず、世祢はうつむいた。手の中で番茶が揺れ、膝に散った。うっと口元を押え、部屋の隅にいざって背を向ける。
「歩き通しでくたびれとんのやろ。ごちゃごちゃ聞かんと、早う寝かしたりいな。話は明日でええやんけえ」
 吉松がいたわるように口をはさみ、それが手くせの、賽ころを湯のみの中にほうりこんで、丁と伏せる。
 娘の波立つ背をみつめ、宇能は鋭い不安に胸をえぐられた。
「もしか……赤ん坊こさえたん違うか」
 びくっと細い肩先がふるえる。否定もせず、身をもんで、世祢は筋ばった母の膝に伏した。懐妊に気づいてから、どれだけ思い悩んできたことか。わが身を処する道に窮して、一途に母を求めて帰ってきた。が、母に問いつめられると、世祢は、秘めてきた事柄のあまりの重さに堪えかねてすすり泣いた。宇能は声をおさえた。
「おなかの子の父は……その男はついてこなんだんか」
「東京へ……もう京へは帰らはらへん。あちらで奥さまを……」
「子のでけたん知って、捨てて逃げくさったか」と、吉松は顔色をかえた。
「知ってはらへん。母さん、そんなお方やないのや」
「あほんだら」
 頭から吉松が怒声をあびせかけた。
「そんなお方もへったくれもあるけえ。何さまか知らんが、腹の子の父親なら、江戸でも蝦夷でも行って、わしが連れもどしてきちゃるぞ。ええか、お世祢、びすびす泣かんとけ。俺があんじょうしたるわい」
 激昂しながら、父も母も姉に聞かせまいと、つとめて声は低い。世祢は高ぶる感情を必死におさえて、涙をはらい、坐り直した。
「東京へお移りにならはる前の日に、伏見までお使いがこれを届けてくれはったん……」風呂敷をとき、母の前に押しやった。白綸子の、目をみはるばかりあでやかな小袖に見慣れぬ横見菊車の紋が一つ。それに……宇能は声をのんだ。錦の袋にくるまるのは、一振りの白木の短剣ではないか。
「これは、うちの守り刀にと……それにこの金子も……」
 美しい布地で作った巾着にも、小袖と同じ菊の定紋がある。世祢は小袖をすくい上げて胸に抱き、艶やかな絹の手ざわりに頬を染める。その小袖から、はらりとすべり落ちた物があった。吉松がひろって眺め、宇能に手渡す。字は苦手、というより、まったく文盲の父であった。粛として、宇能はそれを見つめる。
 見事な筆蹟が匂うような短冊であった。流れる文字に眼をあてて、のどにかすれる声で、宇能は読んだ。
わが恋は深山の奥の草なれや
茂さまされど知る人ぞなき
 裏を返して、あっと小さな叫びを上げた。印と花押の上に力強い筆致で記された御名を、宇能は知っている。宇能の叔父中村孝道は高名な言霊学者であり、女ながら、その素養の一端を受けついだ彼女であった。勤皇の志あつい叔父孝道から、幾度もその御名を聞かされていた。
 蛤御門の変により、その方は先帝のお咎めを受け、輪王寺の里坊に蟄居の身であられたことがある。そのころ、伏見の弟がその御不自由をお助けするためひそかにお出入りしているのを、宇能はそれとなく察してはいた。
 ――でも、その高貴なお方が田舎娘の世祢を……まさか……。
 信じられぬ惑いのうちから、宇能の脳裡に鮮烈に浮き上がる光景があった。
 昨年、即ち慶応四(一八六八)年の二月十五日、世祢に会いに伏見の弟の船宿を訪ねた翌日であった。京の町々は、錦旗節刀を受けて江戸へ進発する親王を見送らんとする人々で、異様な興奮にわき立っていた。御所宜秋門から下る街道の町なみは、ぎっしり人の波であった。湧き上がる横笛と大太鼓、小太鼓の音が、踊るように響き渡る。
  
宮さん宮さん お馬の前に
   ひらひらするのは何じゃいな
   トコトンヤレトンヤレナ……
 街道は、人々の唱和する歌声にうずまった。長州萩藩士の品川弥二郎作詞、井上馨の愛人、祇園の君尾作曲の、この六番からなる、「都風流トコトンヤレ節」は、すでに出陣前から木版でばらまかれ、京の人々の愛唱歌であった。先頭をきるのは、周山に近い山国勤王隊の斥候銃隊。黒い筒袖の軍服に白鉢巻、白腹帯をしめ、赤い赭熊の毛を肩にたらして威風堂々。続く銃隊に守られて錦旗二旒、錦旗奉行二名が騎馬で行く。萌黄緞子十六葉菊の旗一旒。人々のざわめきは一瞬なりを静め、赤地錦の御馬標のもと、二十余名の幕僚、諸大夫を従えた大総督の宮を仰ぎ見た。
「ほんまに御立派どすなあ。見とみやす。あの若宮さまが官軍の総大将で江戸へ行かはる。西郷はんを参謀に連れとってどっせ」
 白鹿毛の馬上豊かに緋精好地の鎧直垂、烏帽子姿の凛々しい親王は、宇能の眼に眩しいばかりであった。思わず手を合わせ、拝していた。
 ――あの時のあのお方が、有栖川宮熾仁親王さまが世祢の子の父。
 宇能は絶句した。

日は天から地から暮れかかる。木枯らしは、いつか細かい雪をまじえていた。その天と地の灰色のあわいを、旅姿の娘が行く。翳った瞳が時おり怯えてふりむく。雪の野面を烏が舞い立つ羽音にも……。

 伏見より老の坂を踏み越えて山陰道を西へと故郷に近づきながら、娘の足どりは重い。亀岡(現京都府亀岡市)の城下町も過ぎ、歩みを止めたのは丹波国曽我部村穴太(現亀岡市曽我部町穴太)の古びた小幡橋の上であった。犬飼川が両岸を薄氷にせばめられ、音もなく流れる。指が凍てつく欄干の上をなでる。国訛の人声が近づく。びくっとして、娘は橋を渡り、石段を三つ四つ、続いてまた四つ五つ降って石の鳥居をくぐり、小幡神社の境内に走りこむ。おおいかぶさる森を背に、小さな社殿があった。その正面には向かわず、右手の大桜の幹にかくれてうずくまる。

 誰にも言えぬ、娘の身で妊娠などと。死ぬほど恥ずかしい。

 伏見の叔父の舟宿に養女に望まれて行ったのは十九の年、まだ都の風にもなじまぬ世祢であった。叔父は伏見一帯の顔役であり、勤皇方の志士たちとのつながりが深かった。

 早朝あるいは深夜ひそかに舟宿に集う人々の中に、あの方はおられた。僧衣をまとい、深く頭巾をかぶったお姿だった。叔父は心得たようにすぐ奥座敷へ招じ入れ、接待には世祢一人を申しつけ、他の女たちを寄せつけなかった。叔父も、同志たちも、敬慕と親しみをこめて、あの方を「若宮」とお呼びしていた。若宮が何さまであるかなど、まだ世祢は知らない。けれど二度三度おいでのうちに、あの方はなぜか世祢に目を止められ、名を問われた。

 そんなある夜、驚きと恐れにおののきながら、世祢は引き寄せられるまま、固く眼をつぶった。抵抗できる相手ではなかったのだ。それに……それにお名を呼ぶことすらためらわれるあのお方を、いつか待つ心になっていた。雲の上の出来事か妖しい夢のようで、現実とは思えなかった。

 幕末から明治へと激動する歴史の流れが、世祢を押しつぶした。

 東征大総督宮として江戸へ進軍されるあの方は、もう世祢の手の届かない遠い人。江戸が東京となり、明治と年号が変わり、天皇は京を捨てて東へ行かれる。

 虚しい日々が過ぎて一年、若宮凱旋の湧き立つ噂さえ、よそごとに聞かねばならぬ世祢であった。明治二(一八六九)年の正月も過ぎ桜にはまだ早いある朝、何の前触れもなく、あの方は小雨の中を馬を馳せていらした。あわただしい逢瀬であった。言葉もなくただ世祢はむせび泣いた。ここにあの方のお胸があるのが信じられない。

 待つだけの世祢のもとに、たび重ねてあの方は京から来られる。帝は京を捨てても、あの方は京に残られた。夏が過ぎ、そして秋――最後の日は忘れもせぬ十月二十七日の晴れた午後。深く思い悩んでおられる御様子が、世祢にも分かった。

「これぎりでこれぬ。帝がお呼びになるのじゃ。これ以上逆らうことはできない。東京に住居をもてば妻を迎えねばならぬ。達者で暮らしてくれ、世祢……」

 あの方は、いくども世祢を抱きしめ、抱きしめて申された。何も知らなかった田舎娘の世祢にも、あの方のお苦しみがおぼろに分かりかけていた。

 京の人々の口さがない噂では、あの方は、帝のおおせで、水戸の徳川の姫と御婚約なさったとか。けれどあの方は、仁孝天皇の皇女、先の帝のお妹にあたる和宮さまが六歳の時からの婚約者であられた。同じ御所うちに育ち、その上父宮幟仁親王さまの元に書道を習いに通われる幼い和宮をいつくしまれつつ御成人を待たれて十年、やっと挙式の日取りも決まる時になって、和宮は公武合体の政略に抗しきれず、贄となられて関東に御降嫁。しかしあの方は、未だに深く宮さまを慕っておられる。二十一歳にして前将軍家茂未亡人静寛院宮と変わられ、江戸におられる薄幸の人を――。

 東征大総督として江戸城明け渡しの大任を果たされたあの方は、天皇の叔母君であられる和宮さまを御所に呼び戻し改めて結婚を許されるよう、帝に願い出られたそうな。総督としての官職を捨て臣籍に下りたいとまで嘆願なされたと聞く。帝は、いまだ治まらぬ天下の人心を叡慮され、風評も恐れぬあの方の情熱を許されなかった。その上、亡びた徳川一門の繁姫さまと皇室との御縁を、あの方によって再び結ぼうとなされたのだ。三十五歳になられる今まで、あの方が親王家として前例のない独身で過ごされたのも、ただ和宮さまへの変わらぬ真心であったものを。

 東京遷都の美々しい鳳輦御東行のお供も辞し、官名を返上されて、あの方は京に残られた。しかし勅命でお呼び寄せになられれば、どうして逆らうことができよう。――うちは、あの方のなんやったんやろ、と世祢は思う。思うそばから、考えまいとふり切った。お淋しいあの方のために、一時の慰めのよすがとなれたら……。

 ――ただそれだけで、うちは幸せなんや。

 供を一人連れただけのお身軽ないでたちで、あの方は去って行かれた。絶えまなく船が行きかう川べりを駆け抜けていかれる最後の馬上のお姿が、世祢の瞼に焼きついて離れない。懐妊に気づいたのは、極月に入ってからであった。あの方は知らない。東の空の下、帝のお傍で、多忙な公務に明け暮れておられよう。訴えるすべさえわからぬ世祢であった。

 ある日、事情に気付いた船宿の朋輩の一人が世祢の様子をうかがい、おどすように忠告した。

「有栖川の若宮さまの落胤は、男やったら攫われて殺されるそうどすえ。気いつけやっしゃ」

「ちがう。うち、身ごもってまへん」

 世祢は強く否定した。にらんだ下から、唇が褪せた。故郷が狼狽する世祢を招いた。

 伏見で船宿を営む叔父夫婦には子がなかった。姉の娘である器量よしの世祢を、前から養女に望んでいた。

 けれど世祢は、引き止められるのを振り切って、伏見を発った。

 思いつめて戻っては来たものの、父母の住むわが家に、すぐにはとびこめない。かじかむ手を合わせ、産土さまにすがりながら、暗くなるまでここにいようと世祢は思った。


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