大本柏分苑L2

日本を代表する宗教家である出口王仁三郎聖師から直接指導を受け、北朝の血統のある出口栄二先生のDVDを世に問う事を 最大の眼目にして、日本の将来を見つめ直そうとしています。 トレードマークの表示画像は1924年聖師が入蒙時(53歳)の雄姿です。

2019年09月

~天祥地瑞第七十八巻より~

    〔令和元年九月二九日 藤井 盛〕                          

平成の天皇ご誕生の昭和八年十二月二十三日、出口王仁三郎聖師が天祥地瑞第七十八巻で、そのご誕生を讃えておられる。

また、大戦で県民の四人に一人が亡くなり、その後も長く米軍占領下にあった沖縄の地元紙も、今年四月末の平成の天皇のご退位について、社説で「象徴天皇たるの務めを全うした」と高く評価している。これらのことをまとめてみた。

 〇天皇ご誕生を祝われる出口聖師

出口聖師は、天祥地瑞口述期間中の昭和八年十二月二十三日、同日ご誕生の平成の天皇を祝って、次のように天祥地瑞に記しておられる。

本章を口述し初むる折しも

  皇太子殿下御誕生遊ばさる

 との号外来り、我国民の魂を蘇へらせ歓喜せしめたるぞ畏けれ。

   

   〔第七十八巻第一八章「神嘉言(かむよごと)」余白。三版

三四○頁〕 

「皇太子殿下御生誕遊ばさる」の活字は大きく、「我国民の魂を蘇へらせ」や「歓喜せしめ」などの讃辞で祝っておられる。

 

○葦原神国と戦後民主主義の成立

しかも、口述がなされた第一八章「神嘉言(かむよごと)」は、国津神と天津神の立場が逆転し成立した「葦原神国」を寿(ことほ)いだ場面である。

  天晴(あは)れ天晴れ豊葦原と栄えます

神の御国は生れけるはや

  光ある国津神等を選(え)りあげて

国の守の神と依さしぬ

国津神が天津神に替わって新たに国の政治を担うという場面である。日本が、昭和二十年八月の敗戦により、天皇主権から国民主権へと変わり戦後の民主主義が成立することを、あたかも予言するかのような内容である。

新国誕生の寿ぎという天祥地瑞の中で展開される物語の世界と皇太子誕生という現実の世界での出来事とが、十二月二十三日というまさにその日で一致しているのである。こうした形で進められる救世のお仕組みに、改めて不思議を感じざるを得ない。

 ○沖縄地元紙「琉球新報」の社説

平成の天皇の退位について、沖縄の地元紙「琉球新報」が社説を出している。平成の天皇に対して好意的である。

琉球新報〈社説〉天皇陛下あす退位 平和希求の精神を次代に (二○一九・四・二九)

            〔註:傍線は筆者〕

皇太子時代を含め十一回来県された天皇陛下が退位する。平成の三十年間、県民と交流を重ねながら沖縄への思いを深めてきた。その姿勢は日米両国のはざまで苦悩し続ける沖縄の平成史を振り返る上でも重い意味を持つ。

沖縄に対する陛下の思いは昨年十二月の会見で語られた「沖縄は、先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきた」「沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはない」というコメントに凝縮した形で表れている。

発言は、太平洋戦争の末期に沖縄を本土防衛の「捨て石」に供し、戦後は沖縄の施政権を切り離して、平和と安定を獲得した現代史の裏面に光を当てるものだ。それは、沖縄の厳しい境遇に無関心な多くの国民に自覚と反省を促すものとも言えるだろう。

陛下は沖縄戦犠牲者を追悼することで沖縄に寄り添う姿勢を示し、平和を希求してきた。その精神が令和の時代にも続くことを願う。

沖縄の文化や伝統芸能にも造詣が深い。在位三十年記念式典では陛下が作った琉球歌が県出身歌手の歌唱で披露されたことも話題になった。

即位後の発言や行動は、沖縄を戦場にしたことへの贖罪(しょくざい)の念の表れであろう。来県のたびに糸満市の国立戦没者墓苑や平和施設などに赴き、沖縄戦体験者や遺族らと語らう陛下の姿は、皇室に対する複雑な県民感情を和らげた。


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近 衛 文 麿 元 首 相 が 終 戦 を 具 申 し た 一 九 四 五 年二 月 の 「 近 衛 上 奏 文 」 を 昭 和 天 皇 が 受 け 入 れ た なら 、 沖 縄 戦 の 惨 禍 は 回 避 で き た か も し れ な い 。昭 和 天 皇 が 米 軍 に よ る 沖 縄 の 長 期 占 領 を 望 むと 米 側 に 伝 え た 四 七 年 九 月 の 「 天 皇 メ ッ セ ー ジ 」も 沖 縄 の 米 統 治 に 影 響 を 与 え た 可 能 性 が あ る 。 新憲 法 下 で の 政 治 的 行 為 だ っ た 。
沖 縄 に 関 す る 限 り 昭 和 天 皇 に は 「 戦 争 責 任 」 と「 戦 後 責 任 」 が あ る 。 そ れ ら を あ い ま い に は で きな い 。 二 度 と 同 じ 悲 劇 を 繰 り 返 し て は な ら な い から だ 。
九月 七 日 の 一 時 間 半 番 組 、 E T V 特 集「 昭 和 天 皇 は 何 を 語 っ た の か ~ 初 公 開 『 拝 謁 記 』に 迫 る ~ 」 で は 、 「 天 皇 メ ッ セ ー ジ 」 の 説 明 が あっ た 。
な お 、 こ の 「 天 皇 メ ッ セ ー ジ 」 は 、 沖 縄 県 公 文書 館 で も 米 国 国 立 公 文 書 館 か ら 収 集 し た も の とし て 公 開 さ れ 、 ホ ー ム ペ ー ジ で も 見 る こ と が で きる 。 説 明 文 が つ け ら れ て い る が 「 そ の 意 図 や 政 治的 ・ 外 交 的 影 響 に つ い て は な お 論 争 が あ り ま す 」と 申 し 添 え て あ っ た 。
ま た 、 E T V 特 集 で は 、 「 拝 謁 記 」 の 一 九 五 一年 一 月 二 四 日 の 記 録 も 併 せ て 紹 介 し て い た 。
マ ッ カ ー サ ー が 「 沖 縄 と 小 笠 原 を 日 本 の 領 土 とは し な い 」 と 言 っ た こ と を 昭 和 天 皇 が 聞 い て 、 「 徳川 時 代 以 下 と な る 。 実 質 は 違 っ て も 主 権 だ け は 認め て ほ し い 」 と 言 っ た と い う 内 容 で あ っ た 。

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『「歴史認識」とは何か』(大沼保昭著聞き手江川紹子)と『「慰安婦」問題とは何だったか』(大沼保昭)

(1)

何かがあると、便乗本が書店に溢れる。テレビの大河ドラマが決まるとその主人公に因んだ本がどっと出てくる。例えば、ある年の大河ドラマに『西郷どん』(せごどん)が決定したら、西郷本(西郷隆盛に関する本)が店頭を占拠した。この場合は西郷について知見を広めようかという欲求もあって嫌な感じはあまりしなかったが、多くの場合はそうではない。便乗本にうんざりした気分になって本棚から自然に目を背けてしまうことが多い。最近では韓国との険しい関係のせいか、嫌韓本と言われる本がその類であるのだろうか。断韓を提示して、批判を浴び自己批判したのが『週刊ポスト』であるが、同じ類の嫌韓本が本屋に出回っていると言える。ただ、テレビや週刊誌に比して書籍においてはそれほどでもないといえる。都心の大きな書店ではあまり目立たない。便乗本と言っても嫌韓本も以前のようには売れないのであろう。情勢を読めない出版社の嫌な振舞いにすぎないとでもいえるのか。

 今度の韓国との対立関係の激化の中で石破茂が唯一まともなことを言っている。彼は「日本が戦争に向き合う事に失敗してきたことを露呈したのだ」と語った。彼は安倍政権下の閣僚などの対応や、嫌韓本が便乗して溢れる現象の根源に日本が戦争に向き合うことを失敗してきたことを見ている。この石破の発言は正鵠を得ている、と思う。

安倍政権の取っている韓国への対応(半導体部品などの輸出規制)は愚策以外の何物でもない。論じる必要のない呈のことだが、ただ、それをキチンと考えるには少し深いところから見る必要があると思う。安倍政権の行為は「徴用工訴訟」や慰安婦問題は対する文政権の対応への不満を経済的嫌がらせで報復したことである。この口実には文政権が1965年の日韓条約での解決済みの徴用工問題や2015年に政府間で合意した慰安婦に動かないためというのが使われている。韓国は国際法に反しているという政府筋の言い分はそうである。この言い分は問題が多いのだが、その背後にあの戦争にいたる過程で生じた問題はもう解決済みだという考えがあり、それが根本なのだと思う。政治的理由や本当の考えは明らかにしないのが安倍の政治的手法だが、それにしてもあの戦争で生じた問題はもう解決済みだというのが透けて見える。これは石破茂のいうように向き合うことに失敗したことである。向き合わずに解決ずみだという態度を取っているのである。これは俗にいわれる「歴史認識」の問題を安倍流に処理したということだが、これは文大統領に指摘されるまでもなく、疑念のあるところだ。

嫌韓本に囲まれて目立たないが、日韓の問題に言及した『「歴史認識」とは何か』(大沼保昭)、『「慰安婦」問題とは何だったのか』(大久保保昭)、『日本統治下の朝鮮』(木村光彦)などいずれも中公新書であるが手にしてみた。どれも、最近出た本というわけではないが韓国との問題を考えるヒントが得られる。その意味で適宜な本と言えようか。

(2)

『「歴史認識」とは何か』は江川紹子を聞き手とする対談本だが、全体としては第一章 東京裁判、第二章 サンフランシスコ平和条約と日韓・日中の「正常化」、第三章 戦争責任と戦後責任、 第四章 慰安婦問題と新たな状況、 第5章二十一世紀世界と「歴史認識」からなっている。聞き手である江川紹子は第5章から読むことを勧めていると前書きで紹介されているが、それはうなずける見解であることが読後感として分かる。本書をこれから読む人はそうするといいのかも知れない。「歴史認識」という言葉は一般的な歴史に対する認識ではなく、特定の歴史にかかわる言葉として使われる。「新聞やテレビ、あるいはネットで<歴史認識>が問題になる場合、それは一九三一~四十五年に日本が戦った戦争と一九一〇~四十五年の朝鮮植民地支配にかかわる問題であることが多い。「慰安婦」問題。「南京事件」。「靖國参拝」などなど。」(本書のはじめに)。というわけである。

要するに太平洋戦争にいたる十五年戦争や朝鮮植民地支配をどう認識するかということである。これは保阪正康が追求しているあの戦争(十五年戦争)を中心に置いた昭和前史の認識ということでもある。戦後の七十余年を経てあの戦争や朝鮮植民地支配という問題は大きく揺らいできたのであるが、依然として解決はしていない。だから、この認識をめぐる対立が安倍政権と韓国の文政権の間であわわれていても不思議ではない。安倍晋三は明確に自分の考えを述べてはいないが、その言動からつぎのようなことが取り出せるように思う。あの戦争に対する日本の責任はないという考えであり、歴史認識の問題などないといことである。歴史認識はあの戦争に対する責任の問題をさす言葉であるが、彼にはそれは存在しないのである。

あの戦争や朝鮮植民地支配についての戦後的な認識(判断)の枠組みが決められたのは東京裁判であった。これは戦勝国(連合国)の立場に立つ敗戦国(枢軸国)の裁きであったが、あの戦争に対する歴史認識は示され、日本はそれを受け入れてきた。これは枢軸国の戦争を全体主義的な、あるいはファシズムの戦争として否定する考えであった。この認識(判断)はあの戦争を侵略戦争と認定するものだった。この裁判は勝者の裁きという公平さを欠いたものであったことは言うまでもないが、戦後の日本政府はこれを受け入れてきた。これに対する批判はいろいろの形で出て来た。東京裁判史観批判であり、安倍は表立っては言わないがこの立場に近い考えに立っている。「<東京裁判史観>批判というのは、東京裁判の判決における認定、特に日本の戦争が国際法上違法な侵略戦争だったことや、南京で日本軍が大規模な虐殺行為を犯したという判断を受け入れるべきではないという考えのようです。あの戦争は日本が満州に持っていた正当な権益を守るための自衛戦争であり、アジア解放のための戦争だった」(第一章 東京裁判)。

これに対する著者の批判(東京裁判史観批判の批判)は正しいものといえる。「日本の戦争が全体として国際法上の違法な侵略戦争であったこと、その過程で日本が大量の戦争法違法行為を犯したことは、世界中の国際法学者と歴史学者が共有している認識です」。不公平さやいろいろの問題を持つとはいえ、この東京裁判の認定はただしいことである。東京裁判が枢軸国の戦争を侵略戦争として裁いたことは正しことであり、東京裁判の批判はこれに対してあるのではない。問題はそれが、原爆投下や無差別爆撃、あるいはソ連の参戦とそこで行われた違法行為などが裁かれていないことである。「東京裁判は、<文明の裁き>という建前で行われてきました。確かに南京事件は非文明的行為と言えるでしょう。ただ、<文明の裁き>というのでれば、広島、長崎への原爆投下はどうか。あるいは一九四五年三月十日の東京大空襲など各地で行われた空襲は非文明的行為ではないのか。<文明の裁き>というのであれば裁かれて当然のそうした行為が裁かれてはいない。そういう意味で東京裁判は勝者の裁きであり、不公正な裁判だった。これは否定できない」(第一章 東京裁判)。

僕はこの著者の考えに賛成である。東京裁判史観の批判はいろいろとあるのだが、僕は右翼や歴史修正主義者の東京裁判史観とは違う形で考えている。彼等は侵略戦争の認定を批判し、あの戦争を自衛のための戦争と肯定するのだが、僕は違う。全体主義的、あるいはファシズムの戦争を侵略戦争として認定したことはいいが、戦勝国の戦争を裁かなかったことを批判する。これは戦争そのものを断罪し、あらゆる戦争を非文明的行為として裁かなかったことを批判する。ただ、ここでは安倍は右翼の東京裁判史観批判に立っていることは記憶に留めておきたい。

韓国や中国は日本が東京裁判で受け入れたあの太平洋戦争を含む15年戦争の認定、その上での戦争責任の処理を要求してきた。日本は基本的にはその線にそって戦争処理を行ってきたし、日韓条約などはその一つだったといえる。ただ、中国や韓国は東京裁判の枠組みや朝鮮植民地支配に対する批判から逸脱した行為等の度に「歴史認識」が踏まえられていないという批判をやってきた。

東京裁判史観批判の立場(右翼的な立場)での振舞いに対する批判である。例えば政府閣僚の靖国神社参拝などについてである。靖國神社は戦死者を英霊と祀り、あの戦争を肯定する考えに立っている。だから閣僚などが公式参拝をすることの批判(反発)はそこだった。

しかし、東京裁判を受け入れながら、それを批判するのは右翼の学者たちだけではなかった。あの戦争を侵略戦争ではなかったと言い出したのは安倍の祖父であった岸信介だが、安倍はこの考えに立っている。「侵略という学説はまだない」という彼の発言はそれをよく示している。安倍は表向きアメリカ等に配慮して、こうした発言は控えているが、彼の基本的考えはそこにある。戦後の日本の歴代政府は東京裁判を受け入れたのでそれに従って、中国や韓国との関係を考えようとしてきたが、その背後にあの戦争や朝鮮植民地支配を自衛のための行為であると認識することに疑念を持ってきたことがある。東京裁判に疑問や批判はあっても、右翼のような東京裁判批判史観には立てなかったのである。戦争体験や経験があの戦争や植民地支配を自衛のための行為とすることにはためらわせるところがあったのだ。それから見れば歴代の保守政権の中で岸信介と安倍は特殊な存在である。

十五年戦争や朝鮮植民地支配を自衛のための行為として肯定的に考える立場を安倍は隠し持っている。現在は世界的にみれば戦後のあの戦争について戦勝国が持って来た立場、全体主義やファシズムの戦争を侵略戦争と枠づける考えが揺らいできている。それは戦勝国であったアメリカや旧ソ連が違法戦争(侵略)をやってきたからであり、彼等の戦争についての戦後を支配してきた理念は力を失っているのである。歴史修正主義が力をもたげているのはそのためである。安倍たちは日本の戦争は自衛の戦争であり、侵略戦争ではなかったということを公然と語れる環境が出てきている。確かに、こういう主張は国際的には通用しないが、以前よりは主張しやすくなってきている。今回の「徴用工訴訟問題」においてそれは既に1965年の日韓会談問題で解決ずみとしているが、背後には韓国から問われるような朝鮮植民地支配の史的な責任問題は存在しないという考えがある。これが表立った主張ではないが、背後にある安倍の考えである。歴史認識の問題など存在していない、解決すみだという安倍のこの考えが韓国の人たちの反発を招いている要因の基本である。

中央の大きな人物が龍樹
龍樹の黄金像

この「空」の理論の大成は龍樹の『中論』などの著作によって果たされた。なお、伝統的に龍樹の著作とされるもののうち『中論(頌)』以外に、近代仏教学において龍樹の真作であるとの見解の一致が得られている作品はない。

龍樹は、存在という現象も含めて、あらゆる現象はそれぞれの因果関係の上に成り立っていることを論証している。この因果関係を釈迦は「縁起」として説明している。(龍樹は、釈迦が縁起を説いたことを『中論』の最初の帰敬偈において、賛嘆している)

さらに、因果関係によって現象が現れているのであるから、それ自身で存在するという「独立した不変の実体」(=自性)はないことを明かしている。これによって、すべての存在は無自性であり、「空」であると論証しているのである。龍樹の「空」はこのことから「無自性空」とも呼ばれる。

しかし、空である現象を人間がどう認識し理解して考えるかについては、直接的に知覚するということだけではなく、概念や言語を使用することが考えられる。龍樹は、人間が空である外界を認識する際に使う「言葉」に関しても、仮に施設したものであるとする。

この説を、既成概念を離れた真実の世界と、言語や概念によって認識された仮定の世界を、それぞれ第一義諦 (paramārtha satya) と世俗諦 (saṃvṛti-satya) という二つの真理に分ける。言葉では表現できない、この世のありのままの姿は第一義諦であり、概念でとらえられた世界や、言葉で表現された釈迦の教えなどは世俗諦であるとする、二諦説と呼ばれる。

無我説を固定化してしまった結果として主体の存在概念が捉えられなくなっていた当時の仏教の思潮[要出典]を、龍樹は「無」と「有(有我説)」の中道である「空」(妙有)の立場から軌道修正した[要出典]ということである。

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